OB弁理士の声 Voice

当研究会出身で、現在弁理士や弁護士としてご活躍されている先輩方からのメッセージをご紹介します。

中大研究室を通じて学べたこと

弁理士 浅見 浩二

中大理工学部在学中に弁理士試験に興味を持った。 精密機械工学科大学を卒業し、働きながら勉強を続けた結果、2013年4月、弁理士になれた。 弁理士としてまだまだ学ぶことが多いが、中大研究会所属の弁理士として頑張っていきたいと思っている。

受験時代の思い出

中央大学の掲示板に中大知財研のポスターを見つけ、弁理士という資格を知った。卒業後の進路を模索していた私は、ポスターに記載された説明会に参加し、気軽な気持ちで弁理士試験の勉強を開始したように記憶している。 当時、受験生として入会すると、当会が借りていた勉強用の部屋(小石川研究室)にある机を利用できる権利を与えられた。そのため、今でも当会では受験生のことを「室員」と呼ぶことがある。 室員になってすぐは、優秀な受験生とは呼び難い状況だった。最終合格を目指すことを決意したのは、卒業後は特許事務所に勤めたいと考えた3年生のときだった。しかし、4年生の5月に受けた一次試験で不合格。卒業後に受けた一次試験にも合格できなかった。 そんな状況であったが、研究会の先輩が経営する特許事務所で雇っていただけることになり、仕事と受験の生活を続けられることになった。 仕事をしながらの受験勉強は学生時代より困難だったが、研究室に通うことで、受験生の先輩や同輩から刺激を受けることができた。また、勉強しない言い訳を語る私を叱ってくれた弁理士の先輩方の存在も大きかった。特に、後から受験勉強を始めた仲間が先に最終合格したことの刺激は大きかった。 一次試験に合格した年、二次試験に落ち、翌年一次免除で臨んだ試験で最終合格できた。最終合格の感動は勿論、受験生活を手助けしてくれた方々が開いてくれる祝賀会の嬉しさは、是非味わってもらいたい。

弁理士になってから

中大研究室を通じて、目標達成に必要なことと、目標達成で得られるものを学べたように思う。 そして、弁理士登録後は、弁理士として色々な人と接する機会が増え、仕事の幅も拡がり、新たな課題が見つかる。そんななか、同じ業界で働く先輩や同輩、慕ってくれる後輩がいることを非常に心強く感じることが多い。そのため、弁理士としての具体的な実績はまだまだであるが、後輩となる学生にも同じ環境を提供できるよう、受験指導にも力を注いでいきたいと思う。

今後の弁理士

知的財産に関する専門家である弁理士には、経済及び産業の発展に資することが期待されている。 弁理士としての専門的知識はもちろん、弁理士試験という難関試験に合格する過程で得られた経験や培った力を活かし、上記期待に応えられるようそれぞれの環境で尽力することが、今後も求められるように思う。
 
 

中大研究室とともに

弁理士 野本 陽一

今年72歳になる。50年前の22歳、初めて弁理士試験を受けた。 3回の受験でなんとか合格でき、24歳の若さで特許事務所を開設した。 長いようで短い、短いようで長い弁理士人生を送ってきたわけである。

受験時代の思い出

中央大学法学部4年生になり、弁理士試験受験勉強を始めたわけだが、当時は現在のような研究会の組織にはなっておらず、非公認のサークル活動のようで日曜の午前中、空いている教室を借りて答案練習を行い、先輩弁理士の指導を受けるような形だったと記憶している。このようにいわば「仲間内の答練会」だったが、入会希望者が増え、しかも中大以外の大学卒業生が入会を希望するようになってきて当会もこれら受験生の答案指導をオープンに行うようになったので、ひと頃は答練参加者が100名以上の大所帯となってしまった。 そこで答練会とは別角度から中央大学在学生ならびに卒業生にターゲットを絞って受験指導する必要性が唱えられるようになり、いつしかこちらの方が主活動となって現在の形に移行してきた経緯があると思っている。

研究会と関わりながら弁理士として生きる。

研究会の受験指導を受け弁理士試験に合格すると何年かは受験生を指導する側になる。友人弁理士と分担して受験生の練習答案の添削をしたり、講評をしたりするわけであるが、実務に入ると遠ざかりがちになる法律解釈の復習になり、仕事の遂行上もプラスの面は当然であるが、「受験生の指導」という共通の時間を先輩友人らと共有するのは楽しいし、本当に良い友達ができてくる。 同業者の中に真の友人ができることは人生にとって非常に大切である。 そんな研究室の人的付き合いがさらに拡散して気が付くと日本弁理士会のなかでも弁理士として活躍する場が提供されることになる。

明日の弁理士業務の展望

世の中の発展に発明や発見が大きく機能し、また豊かさにデザインや商標の機能が大切である以上、知的財産の評価が今後も高まることは事実であろう。 知的財産を発掘しその活用に大きくかかわる弁理士に対する世の期待はこれからも大きいものである。理工系、法文系に限らず弁理士はその顧客の依頼に真剣に取り組む努力が必要である。顧客の技術ジャンルをしっかり研究し、あるいは顧客の業務にかかる商品の商標などと向き合い顧客の信頼を得ながら業務を遂行していく職業人としての姿勢が大切である。 一日も早く晴れて弁理士になれるよう受験生諸君の健闘を祈る。

中大研究室の思い出

弁理士 青木博通

1977年中大付属(作詞家:秋元康氏と同窓)を卒業すると、そのまま中央大学法学部法律学科に入学した。 クラブは、中大研究室、茶道会(江戸千家)、くるみラグビークラブの3つに所属し、最後まで続いたのが、中大研究室と茶道会である。ゼミは外間寛教授(行政法)に所属していた。最近ではこれらのOB会にもよく出席している。

受験時代の思い出

大学2年の時に大学が神田から多摩に移転し、その時に研究室に入室し、席を割り当てられた。他の司法試験の研究室より一回り大きい立派な机であった記憶がある。ゼミは、後楽園にある文京区の区役所の会議室や後楽園の会議室を借りて、週1回OBの弁理士の先生にきて頂き講義を受けた。意匠関係では、牛木理一先生、加藤恒久先生が本を書かれており、特別講師としてきて頂いたことがあるが、両先生の考えが難解で、学生の私にはよく理解できなかった記憶がある。弁理士試験に合格し、実務をこなしている現在は、両先生のお考えはよく理解できる。 学生時代に合格できなかったので、その後、現在のユアサハラ法律特許事務所に入所してから、働きながら、合格した。自宅から事務所まで1時間40分かかり、朝は電車に座って勉強、昼は、昼食を早めに済ませて、国際郵便局のソファーに座って条文の読み込み、帰りの電車で睡眠をとって、家で勉強する日々が続いた。択一試験には、「0」回答があり、合格ボーダーラインが50点満点で45点であった記憶がある。 論文試験は、専門科目が、特許法、実用新案法、意匠法、商標法、条約の5科目で1科目2時間の試験、選択科目が、憲法、行政法、刑事訴訟法の3科目で1科目2時間の試験で、合計16時間の試験であった。司法試験の14時間より長かった。 面接試験では、成蹊大学の紋谷暢男教授に、一般的な質問が終わった後、「独禁法100条で実用新案権が取消自由になっていない理由は何か。」と聞かれ舞い上がった記憶がある。

弁理士になってから

理士になってからは、商標、意匠の仕事についた。新人時代は、意匠の仕事が多く、当時、日本では部分意匠制度がなかったため、米国からくる部分意匠の出願の破線を実線に直して出願するのが主な仕事であった。 仕事をしながら、受験指導も続けたが、特許法の講義がだんだんとつらくなってきた。答案練習会の合宿の飲み会で、外部から参加した2名の受講者に、特許法について質問され、満足に答えられなくなったことがあった。これを機会に、特許法の講義の担当から降りることにした。この2名の優秀な受講者は、現在、中村合同法律特許事務所のパートナー弁理士、キャノンヨーロッパの弁理士として国際的に活躍されている。 意匠の仕事が多かったこともあり、日本弁理士会の最初の委員会は意匠委員会に所属した。その後、40年ぶりの意匠法改正があったときは、日本弁理士会意匠委員会委員長として、特許庁のワーキンググループに所属して、法改正にも関与することができた。 その時、ワーキンググループでご指導頂いた北海道大学の田村善之教授に、北大に呼んで頂き、2004年から3年間、客員教授として、主に意匠法の講義を担当し、有斐閣から、『知的財産権としてのブランドとデザイン』という本を出版する機会を与えられた(数か月で完売)。

これからの弁理士への期待

現在の主な仕事の内容は、商標、意匠に関する、先行調査、出願、鑑定、異議・無効審判、訴訟、模倣対策、コンサルティングである。しかしながら、これらの仕事は100年前と同じであり、先般たちが作ってきたビジネスモデルを踏襲しているに過ぎない。弁理士として新しいビジネスモデルを構築する必要があると強く感じており、それなりにトライしているがなかなか上手くいかない。これからの弁理士には、従来からある実務を深めると同時に、新しいビジネスモデルを構築することを期待したい。